「モジャ!」 season1 第三回
喪失
敵は、本能寺にいない。ましてや、己の中にさえも。
敵はいつだって、まぼろしだ。記憶がつくりあげた残像だ。
無論、遅刻は遅刻である。飛べない豚がただの豚であるように。約束の時間を過ぎた俺は、一抹の後ろめたさを掻き消そうと大きく息を吸い込んだ。平常心は、探偵にとって命綱である。俺は、この金言を、アマゾンで買った探偵の教則DVD「ハウ・トゥ・ホームズ」で学んだ。以来、毎朝洗面台の前で歯を磨きながら、何食わぬ顔を装う練習に励んでいる。
古い木製の扉を開けると、カランコロンと牧歌的な音がする。あえて、店内を見回すことなく席についた俺は、これから座禅をはじめる修行僧のように目を閉じる。もはや気分は宮本武蔵。人間万事、塞翁が馬。俺の中では、ただの遅刻が巌流島で佐々木小次郎を撃退した策略のように光を放っている。
待ちくたびれた女が、苛立ちながら近づいてくる姿態を想像し、してやったりとほくそ笑む。 何しろこの世界では、依頼者が犯人だという結末も、日常茶飯事なのである。油断は禁物、具材は五目。常に裏の裏の裏をかき、自家中毒に陥る直前で寸止めする。
俺は、この教訓を火サスから学んだ。ありがとう、船越英一郎。ありがとう、片平なぎさ。
目を閉じて何も見えず。谷村新司は当たり前のことを歌う。
そして、目を閉じた俺の前に、女がやって来る気配は未だない。俺は、すっぽかされた居酒屋デートで、生レモンサワーを、立て続けに三杯飲んだあの夏を思い出す。泣きながら俳句を詠んだあの夜を。
染みたのは 絞った檸檬の 雫です(藻蛇)
いっそ目を開けて、店内を見まわしてやろうか。いや、それではまるでこっちが焦っているようではないか。心中、激しく葛藤し始めた俺は、右目を薄目、という折衷案を思いつく。俺だって、世の折衷案の八割が、見栄と拘泥と忖度をかき混ぜた食えないチャンプルーであることくらい知っている。だが、毒を食わらば皿までだ。薄目の右目と心中だ。右の瞼をかすかに上げてぐるり店内を見回すと、プリマヴェーラ自慢のボルシチを牛丼みたいにかっこむおっさんの背中が見えた。
カタリと音が鳴り、目の前に二人分のコーヒーカップが置かれた。
「まだ注文してないけど」と俺が言うと、「したの、私が」と女が言った。
したの、私が…
俺は、この世に生を受けてから、これほどまでに艶めかしい倒置法を聞いたことがなかった。堪えきれず両目を開けて、女を見上げた。言葉を失った。心を奪われた。探偵であることを忘れた。おっさんであることも忘れた。
そして、モジャだけが残った。 (続)
ロケ地:下北沢
lyric:ミフキ・アバーチ photo:サマーカーター・トゥーイ starring:ウーコ・カオターカ