片岡好デザイン事務所

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「モジャ!」 第二回 プリマヴェーラ

 「プリマヴェーラで待ってるわ」と女は言った。

まるでフェリーニの映画に出てくる、眉の吊り上がった女のように。
そう、プリマヴェーラはイタリア語で春。俺にも、春がくるのだろうか。

 声は想像力をかきたてる。想像力はいつも欲望に根ざしている。俺は電話の女に会いたいと思った。もちろん、待ち受けているのがハードな依頼であることはわかっている。何しろ俺の生業は、デザイナーであり探偵なのだ。こんな奇妙な二刀流男に、まともなボールが投げ込まれるはずがない。

 でも、大丈夫だ。気にせず既読スルーだ。たとえどんなハードな依頼でも、それは未来の出来事であって、現時点の問題ではないのだから。
 それに見て見ぬ振りは、俺の得意技のひとつなのだ。自慢じゃないが、俺は生まれてこの方、ずっと見て見ぬ振りをして生きてきた。でなければ、今頃とっくに気が狂っているだろう。そして、あと30年経った暁には、死んだ振りという新技が俺のレパートリーに加わる予定だ。

 「人間だもの」と、声に出さずに言ってみる。
脳内の独り言は、俺自身の言葉のはずなのに、どこか俺以外の誰かの言葉のようでもあって、親密な会話をしているような気分になる。興に乗ってきた俺は、「コーヒーは豆から挽けよ」と、今度はちょっとニヒルに決めてみる。もちろん、脳内という小宇宙の中だけで。

 その時、現実世界のクラクションが鳴り響く。明らかに怒気を帯びた大音量は、少し離れた大通りが発信源だったけれど、自らの脳内に深く潜り込んでいた俺は、図らずも虚をつかれた。おかげで目の前に存在しない車から身をかわすという始末。おまけに足がもつれて転倒するというお粗末。屈辱まみれの顔を上げれば、倉木コーヒー商店の古いガラス戸には、四つん這いのモジャモジャ男が映っている。イズ・ザット・ミー?

 信号を渡れば、プリマヴェーラだ。トンネルを抜ければ、雪国のように。だが俺は、この信号を渡らない。青だが敢えて渡らない。渡らずに右に曲がる。それからまた右に曲がって、ランチタイムの居酒屋が立ち並ぶ路地裏を練り歩く。
 急いては事を仕損じる。かつて開高健は、「悠々と急げ」と言った。それがどういう意味なのか、俺にはよくわからない。よくわからないが、なんだか感銘を受けている。よくわからないことに感銘を受けるのは不思議なことかもしれないが、俺に言わせれば、よくわからないことにこそ、感銘がつまっている。

 こうして俺は、事務所から徒歩3分のプリマヴェーラにいつまでも辿り着けないでいる。
…嗚呼、春はまだ遠いのか。(つづく)

モジャ!第一回

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